気ままに興味あることを綴るだけ

インドに行きたい
海外旅行をしたいという思いは常にある。

特に行く人によって感想が二分されるインドは非常に興味がある。

今日はインドに4回も行ったという女性と出会った。
その女性に言わせると、インドは来ることが運命であるかのようだったと語っていた。

またインドの砂漠でラクダに乗った時も言いようのない感想で涙がぼろぼろと零れたという話もしていた。

当時は飛行機代だけで2万円という格安の価格で、しかもインドに長期滞在しても数万円しかかからなかったというのも非常に心惹かれる話だ。
インドならホーリー祭に行って見たいと思う。

バリ島も最近少し気になっている。
イタリアもハワイも気になる。
心惹かれることが沢山あるんだ。

最近行ったこと
最近新たに始めたことはなんだろうと考えている。

こうして適当な記事ばかりでブログを書いているのも一つの実績だろうし、カフェからカフェへと人の紹介に乗ってあちこち回るというのも新たに始めたことだ。

適当な格好で高尾山に登ったなら、次は別の山を巡りたいと思うし、写真撮影も始めたい。

喜ぶ人がいるから公開するという形で記事を書きたい。
自分自身を自慢するような形はどうにも苦手だ。

最近は他にも切り絵工作も始めた。

ずっと汚れたままだった玄関や庭先も整えだした。

そう、こういう事をしてみて思うのは、物を買うよりも人と楽しく会話した方が何倍も充足感が生まれる。
そして自分自身で決めたタスクを達成すると、また紛れもない幸せが生まれる。

ただし、どんなに満足しても、どんなに失敗したと思っていても、記憶は未来から過去に流れて行く。
いいことも悪いこともどんどんと塗り潰されていく。
だがしかし、それこそが人生の醍醐味なのかも知れない。

人生とは旅と勉強、どうも自分の人生はそんな物でできているのかもしれないと最近よく思う。

明日は何処に向かって進もうか。

走る方向

とにかく今年は出来る限りの方法で走っているつもりだ。
やったことのないことをして、やりたいことをして、会ったことのない人に会ってそれこそ友達100人出来るかなの勢いで違うところに行って自分自身をさらけ出している。

しかし一歩こうして俯瞰的に見てみると、ただ同じ地点で足踏みをしているようにも思えるし、何処かに向かってい動いているようにも思える。

カフェ巡りも10近くに増えたし、高尾山も登った。
乗馬経験は正式にはまだだが、それに近しい経験をした。

次は合唱をしてみようか。
近所のイベントを次々試してみようか。

しかしこうしてランダムに思い付いたことを順々に試してもどうにもまだ根無し草な気がしてならない。

だが、一時期行った映画100本無差別に見ることや、本を読んで勉強しての成果が会話の中に生きているのは感じる。

後は正しくこの方向性が掴めれば良いのだが。

次はテルミンを演奏したり、ダーウィンズカフェに行ったりしたい。
とにかく新しい方向を模索して動いてみよう。

一つのアクションから複数の可能性が生じると信じてみよう。

年齢と性格
昔からどうにも女が苦手だった。
女という生き物は気が付くとすぐにグループを作り、グループ外の者や他のグループの者に対しては冷淡なまでに興味がない。
それに加えてことあるごとにすぐに他人の欠点や極めてどうでも良いことをあげつらい、堂々と、時には多数決の形を取って批判や悪口を連発する。

小学生の頃にはすでにそんな認識が自分の中に形成されていたのだが、最近それまでの既存概念を覆す体験をした。
下は高校生を卒業したばかりの女の子、上は既に子育てを終えたぐらいの年齢の主婦。
そういう幅広い年齢層が集まる輪の中で数ヶ月ほど過ごすこととなった。

それと同時並行で、地元にある喫茶店をめぐり、ほぼ初対面の見ず知らずの相手と小一時間ほど会話をする経験を積み重ねた。

そうして感じたのは、年齢を重ねるにつれて女性は人当たりがまろやかになるということだ。
俗に言う 「歳を重ねて丸くなった」 という奴なのだろうが、結婚・出産・子育てという人生のタスクを終えて、ある程度の貯蓄もできてやりたいように自分の人生を謳歌できている状態が人に対する余裕を作るのではないかと感じた。
もっともこれは母に言わせれば、年齢を重ねるにつれて段々細かいことがどうでもよくなった、ということらしいが。

それに加え、若いうちは金銭的な面やそれこそ親や先生という立場が上の人々にことあるごとに制限や反対をされていたのが、加齢と共に自分がやりたいことを自由にできるようになったことも大きく影響しているのではないかと思った。
人は自分が既に持っている物には嫉妬しない。
自分が持たず、なおかつあと少しで手が届きそうで届かない物を目の前にした時に、強烈な嫉妬を抱くのだ。

そういう訳で、自分は女という生き物に対する強烈な恐怖からようやく開放された。
そして小学生や学生時代には恐怖の対象でしかなかった突然キレだす女という存在も、よくよく観察してみるとある特定の一人だけが異様に攻撃的な性質を持っているということに気が付いた。

10人近くの女性と代わる代わる顔を合わす場で、一人は貫禄があり何でも知る大ベテラン、二人は大人のまろやかな態度を身に付けた主婦、一人は穏やかな性格のおっとりさん、一人はクールに近いが比較的友好的な同年代、一人は物静かで親に礼儀正しく躾けられたであろう丁寧さん、一人は遠くから上京して一人暮らしのしっかり者、一人は人見知りで自信なさげな一生懸命ちゃん、一人は無表情ながらも些細なことには動じない強メンタル――と多くの人がいる中で、一人だけ高圧的で威嚇的で攻撃的な態度を常に見せる者がいる。

かつての自分ならば、ちょっと男子ー!! とヒステリックに叫んで喚き散らす女がいたら萎縮して縮こまっていたが、自分だけではなく隣にいる日替わりの2名、年配者、同期の相手……と無差別に同じ態度を取る姿を目にすることで、怖ろしい相手というのは女性全般ではなく特定の一個人であるということにようやく気が付いた。

空間全体の雰囲気が違うのだ。
その一人がいる日といない日では。
なおかつヒステリックな態度に距離を取りたがっている者は自分ではないというのも重大な発見だった。

人は評価する者がいる場では評価され、評価する者がいない場では評価されない。

若くて刺々しい人々も加齢と共に丸くなり、評価される場所を発見することでまた丸くなるのだろう。
そして自分が不快に感じている時はまた同様に周囲の者も感じている可能性もある。

そういうことを思えば、今まで女性全般に感じていた恐怖心が消え失せた。
攻撃的な人は攻撃的。
しかしそうではない人も幾らでもいる。

重要なのはただひたすらに周囲の風景がよく見えるまで観察し、自ら率先して友好的に話し掛けてみることだ。







楽しさと充実感
最近ふと考えることがある。

時間もあり、金銭的にも事足りている状況だが、心の中はぼんやりとした虚無感がある。

この虚無感を埋めるために地元のカフェで人と話したり、居酒屋やバーで飲み食いを重ねたりしているが根本的な問題は何も解決していない。

ただ漠然とその無駄な隙間時間をどうにか有効的に活用出来ないかとぐるぐる考えている。

楽しいことを行っている。
人と会話することは新たな発見もあり、楽しいはずだがどうしても物足りない。
この満たされなさは「ライバルの欠如」ではないだろうか。

自由にきままに生きることに幸福を感じる人もいれば、真逆の想いを抱く物もいる。
そういう性格の人間はおそらく時間に制限が掛けられ、慌ただしく日々を過ごすことにある種の快感を覚えるのだろう。

そして更に必要とするのは和気藹々と過ごせる相手ではなく、張り合い競うための相手。

つくづく困った物だ。
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